2012-11-02

百万


あらすじ
吉野の男が奈良の西大寺あたりで拾った子を連れて、嵯峨清涼寺の大念仏にやって来る。そこへ百万と名乗る女物狂が現れ、念仏を唱え踊りながら、生き別れた我が子との再会を本尊に祈念する。子は母と気付くが母は知らぬままに舞を奉げて祈り、群集の中に我が子の姿を捜し求めるのだった。やがて男が子を母に逢わせて喜びの対面となり、母子は仏力に感謝し奈良の都へと帰って行く。

次第1 ワキ
竹馬(チクバ)にいざやのり(乗・法)  竹馬にいざや法の道
真の友も尋ねん

少年が竹馬に乗るように 喜び勇んで仏道に入り
仏門の真の友を尋ねることにしよう

(ひとこと)
「竹馬の友」という言葉があるが、それとは関係ないようです。「竹馬」は7歳という年を表すとも。
子どもに関わる曲であることを冒頭で示し、「法の道」で仏力が讃美されます。吉野の男はずいぶん信心深い。

次第2  シテ
わが子に  あうむ(逢・鸚鵡)の袖なれや
親子鸚鵡の袖なれや  百万が舞を見給へ

わが子に逢うことを念じてか 鸚鵡模様の衣の袖
親子が再び逢うことを念じてか 鸚鵡模様の袖をひるがえす
この百万の舞をごらんください

(ひとこと)
次第の2句目は初句の繰り返しが多いそうですが、これは全くちがいます。
切ない母の心情がこめられた袖の模様。その袖も重なり合ってほしいという母の願望。
クライマックスに導く力強い詞章です。

キリ  地謡
よくよく物を案ずるに  よくよく物を案ずるに
かの御本尊はもとより  衆生のための父なれば
母もろともに廻り逢ふ  法の力ぞ有難き
願ひもみつの(満・三)の車路を
都に帰る嬉しさよ  都に帰る嬉しさよ

よくよく考えてみると あらためてよくよく思えば
かの御本尊釈迦如来はもとより 衆生のための父なのだから
その御前で母も一緒に(子と)めぐり逢うという、仏の力は誠に有難い
願いも満ちて 車の通う道を
都に帰るとはうれしいこと 連れ立って(奈良)の都へ帰るのはうれしいことだ

(ひとこと)
観阿弥原作、世阿弥改作のこの曲は、清涼寺の縁起がもとになっているのですからハッピーエンドは当然です。
アイの解説に、「嵯峨の大念仏は人の集まりにて候ふ間」とあるようにドラマの背景には「雑踏」があり、キリの「車路」でも賑わいが想像できます。
この、仏に縋ろうと集まる「衆生」の存在が、百万の悲しみに厚みを与えているように思えます。
次第1の「法の道」が、結局は、古里へ通じる「車路」に変りました。