2012-10-22

檜垣


あらすじ
肥後国岩戸山に住む僧が、毎日閼伽の水を汲みにくる老女を不審に思ってえ今日も待つ。老衰を嘆きつつやって来た老女は、檜垣の媼の「みつはくむ」の歌の由来を語り、弔いを乞い姿を消す。所の者に勧められ、僧が白河のほとりの庵を尋ねると、媼の霊が現れ、弔いを感謝し無常の世を嘆く。女の霊は、地獄での苦しみと今なお釣瓶に因果の水を汲む有様を見せ、懺悔の舞を舞って成仏を願う。

次第1  シテ
影しらかわ(白・白川)の水汲めば  影白川の水汲めば
月も袂や濡らすらん

月影の白く映る 白川の水を汲むと 月の光の白く照るもとで
(水ばかりでなく)月も わたくしの袂を濡らすことである

(ひとこと)
後撰集の檜垣媼の歌「年経ればわが黒髪も白河のみつはぐむまで老いにけるかも」が曲の本歌。「水汲めば(水は汲む)」には瑞(ミズ)歯ぐむ(老衰して歯が抜けた後に再び瑞々しい歯が生えること)」が掛けられていることが後の詞章でわかります。
月の影は黒ではなく白。しかし影や白川の水より、老女の涙の方がずっと袂を濡らしています。

次第2  地謡
つるべの水に影落ちて  
袂を月や上(のぼ)るらん

釣瓶の水に 月が影を落とし (かけ縄で汲み上げると)
袂のあたりを月が上るからのようだ

(ひとこと)
二つの登場歌は、単語は同じながら、月が動きます。いよいよクライマックス。
釣瓶は業火に燃え、かけ縄を繰り返し繰り上げても水は尽きないという責苦。月影がしらじらとその様子を浮び上がらせています。

結末  地謡
(これまで現はれ出でたるなり)
運ぶあしたづ(足・蘆鶴)の  ね(音・根)こそ絶ゆれ浮き草の
水は運びて参らする
罪を浮かめてたび給へ  罪を浮かめてたび給へ

足を運び よるべない浮草のような 身ながら
水は運んでさしあげますから 
わたしの罪を 浮べて下さいませ 罪に沈むわたしくしを お救い下さいませ 

(ひとこと)
檜垣媼は「百歳の姥 小野小町」に重ねられています。小町の歌「わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ」がもと。
次第と結末に共通するのが閼伽の水。その水を運んであげるから救ってほしいとまるで観世音に話かけるような感じ。
「あしたづ」は「音」にかかる枕詞で、声を上げて泣くという意味を含みます。しかし、老女の歩み(あるいは本人)も鶴のようではないですか。
水と浮く、蘆と浮き草もつながりがあり、いくつにも意味を読み取りたいですね。















2012-10-15

班女



あらすじ
美濃国野上の遊女花子は、東国下向の吉田の少将と扇を交換して別れた後、扇ばかりを眺めているので、漢の「班婕妤」に例えられ「班女」と呼ばれた。閨に籠り勤めをしない花子は追放され、一方、吉田の少将は都への帰途で野上に立ち寄り、花子の不在を知るやいなや上京し糺(タダス)の森に参詣する。そこへ物狂いとなった花子が現れ、少将との再会を神に祈り、都の男の所望に扇によせて恋心を語り舞う。少将は班女を呼びよせて扇を取り交し、二人は元の契りを結ぶ。

次第  少将とトモ
帰るぞ名残富士の嶺(ネ)の  帰るぞ名残富士の嶺の
ゆき(雪・行)て都に語らん

帰るのだ 富士の嶺に名残を惜しんで 帰るのだ 名残の尽きない富士の嶺の
雪をあとに 都へ行って 富士の雪のことを語ろう

(ひとこと)
詞章の「雪」は結末にも出てきます。「班婕妤」が寵を失った自分を「月の様に円い雪のように白い団雪の扇」に例えたことが元になっています。。中国の扇はウチワのようだったのですね。
都へ「帰るぞ」との強調や、富士の雪を土産話にしようという謡い手の意思が感じられるめずらしい次第です。

結末  地謡
(輿の内より)
取り出だせば  折節黄昏に  
ほのぼの見れば夕顔の  花を描きたる扇なり
この上はこれみつ(これ見・惟光)に  紙燭(シソク)召して
ありつる扇  ご覧ぜよ互いに
それぞと知られしらゆき(知らる・白雪)
扇のつま(端・夫・妻)の形見こそ
妹背の中の情けなり 妹背の中の情けなり

扇を取り出したので (従者は花子に扇を渡す)
折りしも夕暮れの薄明かりにぼんやりした中で見ると 花を描いた扇である
(花子は少将に自分の扇を渡す)
この上はお付きに灯をお命じになる
こちらの扇を ご覧下さいませ と言って互いに扇を見て
それぞれあの人と分かり合えたのである
愛する人の形見としての扇こそ 夫婦の中の愛情を示すものなのである

(ひとこと)
省かれた文章が多いのは、引用されている「源氏物語」の原文を読むようです。
少将が持つ花子の扇は夕顔の絵。「惟光に紙燭召して~ご覧ずれば」は、源氏の「夕顔」の詞章と同じ。夕暮の情景が目に浮かんできます。しかし少将の扇はどんなものだったのでしょう。
二人の再会が「誰そ彼」の時間帯に行われた意味を思います。
遊女と貴公子の恋が真実ハッピーエンドとなるのか。「扇のつま・妻・夫」と掛け詞になっていますけど・・。


















2012-10-09

花筐


あらすじ
大迹皇子が皇位即位のために上洛した旨を、使者が照日の前へ告げて文と花筐を渡す。照日は悲嘆の中、文と花筐を抱いて里へ帰る。皇子は継体天皇となり、紅葉の御幸に出かけるが、そこへ物狂いとなり都へ上ってきた照日が出くわし、官人が侍女が持った花筐を打ち落とす。照日は官人を非難して思慕を示し、物狂いを勧められると李夫人の曲舞を語り舞い、漢王の思慕を我が身に喩える。継体天皇は花筐を自分が与えた物だと認め、再び照日を召すことにして還幸する。

次第  ワキとワキツレ
君の恵みもたかてら(高・高照)す  君の恵みも高照らす
紅葉の御幸早めん

(照り映える紅葉と同様に) 大君の恵も高く照り輝き あまねく照らしている時
君は照り映る紅葉をご覧にお出かけ その道を急ぐことにしよう

(ひとこと)
シテは「照日」と言う名であるのに、紅葉のように輝くのは女を捨てた天皇の方です。
「高照らす」は枕詞でしょうか。「高」所から民を照らしている感じ。
山の高い所にまで紅葉が進んでいる光景も目に浮かんできます。

結末  地謡
御遊(ギョユウ)もすでに  時過ぎて  御遊もすでに  時過ぎて
今は還幸  なし奉らんと  供奉(グブ)の人びと  おん車遣り続け
もみぢ葉散り飛ぶ  御先(ミサキ)を払ひ
払ふや袂も  山風に
誘はれ行くや  玉穂の都  誘はれ行くや  玉穂の都に
つき(着・尽)せぬ契りぞ  有難き

ご遊覧もすでに 時移り 紅葉の御幸もすでに刻限となって
今は還幸をおさせ申し上げゆと 御供の人々が お車を進め続けて行けば
紅葉の葉が散り飛ぶ 行列の先を払い
払い清めると照日の前の袂も 山風に
なびき 連れられて行くのは 玉穂の都 玉穂の都で
尽きせぬ契りを結んだのは まことに有難いことである

(ひとこと)
渡辺保氏は、この場面の「もみぢ葉」を、宮廷で殺されたであろう照日の「血痕」に擬えています。それを読んでからというもの、私は「葉」の形、そして「散り飛ぶ」から血痕以外を想像することができません。
結末の詞章が、物語の先を暗示している面白さです。
照日の袂を山風が翻すのは、もう冬がそこまで来ているから。紅葉(照日)の終わりですね。
















2012-10-06

芭蕉



あらすじ
楚国小水(ショウスイ)の山中で修行する僧が、毎夜読経の折に庵室あたりに人の気配がするので、今夜は名を尋ねようと読経を始めると、女が現れる。女は仏法結縁のために庵に入ることを望み、女人成仏、草木成仏の功徳を語り、芭蕉の精であるとほのめかして消える。僧は所の者より芭蕉の故事を聞き法事を始めると、芭蕉の精が現れ、女体に化身している謂れを話す。芭蕉の精は草木成仏を説き、諸法実相を詠嘆して舞を舞い、やがて風前の芭蕉の姿を示して夢と消える。

次第  シテ
芭蕉に落ちて松の声  芭蕉に落ちて松の声
あだにや風の破るらん

芭蕉の葉をバサバサと鳴らして吹き落ちる松風の音
芭蕉葉はその松風の音にも  はかなく破れてゆくのか

「風吹けばあだに破(ヤ)れ行く芭蕉葉のあはれと身をも頼むべき世か」 西行にもとずく
「砧」の次第に「衣に落つる松の声」とある

(ひとこと)
「万物はそのままの姿が成仏の相を示している」と、芭蕉の精が修業の僧に説く痛快さは「卒塔婆小町」のようですが、登場の次第は無難です。
芭蕉と松が同じような緑の植物であり、「砧」の次第の方がずっと優れていると思います。

結末  地謡
返す袂も  芭蕉の扇の
風茫々と  ものすごき古寺の
庭の浅茅生(アサジウ)  女郎花刈萱(オミナエシカルカヤ)
面影うつろふ  露の間(マ)
山颪(オロシ)松の風  吹き払ひ
花も千草も ちりじりになれば
芭蕉は破れて  残りけり

袂をひるがえす その芭蕉葉の扇によって
風がざわざわとして ものさびしい古寺の
庭の浅茅生上で 女郎花・刈萱が風に吹き乱れ
その女の姿は移り動いて あっという間に
山より激しく吹きおろし 松に音たてた風が 野辺を吹き払い
花も千草もちりぢりになってしまったので 女の姿も消え失せ
芭蕉葉は破れて ただ風に破れて芭蕉葉が残ったのであった

(ひとこと)
次第に呼応している詞章。すべては僧の夢であったという詞章がないことがかえって効果をあげています。
山颪に続く「松の声」は、次第の「松の声」よりずっと動きがあり、寂寥感も伝わります。
舞袖や扇を芭蕉葉に例え、女郎花を引くなど、「女人」の曲の最後は荒涼としたイメージながら華やかさも。「冷える」とはこんな境地でしょうか。禅竹の作。