2012-12-30

紅葉狩


あらすじ
秋も半ば、戸隠山中で三、四人の美女が紅葉狩に興じている。そこへ鹿狩りの平維茂一行が通りかかり、維茂が馬から降りて迂回しようとすると、美女が酒宴の仲間入りを勧める。維茂は断りかね、勧めに応じて盃を重ね、舞に見とれて寝入ってしまう。女達は「目を覚ますな」と言い捨てて姿を消す。やがて維茂の夢に八幡宮の神が現れ、女が戸隠山の鬼だと告げ神剣を授けて目を覚まさせる。維茂は神剣を抜いて激しい格闘の末に鬼女を退治する。

次第  シテとツレ
時雨を急ぐ紅葉狩  時雨を急ぐ紅葉狩
深き山路を尋ねん

時雨で色づくことを急ぐ紅葉 その紅葉を見るために急いで
山路深く尋ねて行くことにしよう
あるいは
(秋の女神龍田姫が)木々を染める時雨をさかんに降らせるので
赤く染まった紅葉を見に深い山路を尋ねよう
「龍田姫いまはの頃の秋風に時雨を急ぐ人の袖かな」新古今集・藤原良経

(ひとこと)
「急ぐ」が色づくと紅葉狩の両方にかかっています。
突然降りだしてサーァと止む時雨にも「急ぐ」イメージがあり、心を急き立てる冒頭の詞章です。
「~を尋ねん」という言い回しも次第ではよく使われ、「お話」に分け入る気持ちになります。

結末  地謡
惟茂少しも  騒ぎ給はず  
南無や八幡  大菩薩と  心に念じ
(ツルギ)を抜いて  待ちかけ給へば
微塵になさんと  飛んでかかるを
飛び違ひむずと組み  鬼神の真中(マナカ)  刺し通すところを
(コウベ)を掴んで  上がらんとするを
斬り払ひ給へば  剣に恐れて  巌に登るを
引き下ろし刺し通し  たちまち鬼神を  従へ給ふ
威勢の程こそ  恐ろしけれ

(ひとこと)
「義経少しも騒がず」は名句ですが、惟茂には具体的な武勇談がなく、しかも「給はず」がついているのでキレがわるいですね。
結末の詞章は詩的でもなく劇的ともいえません。それが舞台では武人と鬼女の派手な所作となり観客は大喜びです。
前半の「堪えず紅葉、青苔の地」という有名な詞章は漢詩がもとですが、非常に色鮮やかで男を誘惑する美女にぴったり。作者は観世小次郎信光。

















2012-12-12

三輪



あらすじ
三輪山麓に住む僧の玄賓(ゲンピン)が、いつも参詣に来る女を待つ。その日、女は玄賓に衣を乞い、玄賓は衣を与え女の素性を尋ねる。女は杉が目印だと住みかを教えて消える。里の男がご神木に衣が掛かるのを見付けて玄賓に知らせ、玄賓が確かめると衣の裾に金色の文字で歌が書かれている。その歌を詠むと杉木の中から返歌が聞え、女姿の三輪明神が姿を現す。明神は三輪の神婚譚を語り神楽を舞い、伊勢と三輪の神が一体分神だと物語り、やがて夜が明ける。

次第  シテ
三輪の山もと道もなし  三輪の山もと道もなし
檜原(ヒバラ)の奥を尋ねん

三輪の山のふもとは道もない 山のふもとは道もないのだが
檜原の奥を尋ねることにしよう
(檜原は大和国  三輪山の北麓  檜原谷に玄賓の庵があった)

(ひとこと)
ワキである玄賓は自分を山田を守る案山子に例え「秋果てぬれば訪ふ人もなし」と述べます。冒頭の次第でシテが「道もなし」というのに応じているのか。よほど寂しい場所のようです。

結末  地謡
思へば伊勢と三輪の神  思へば伊勢と三輪の神
一体分神のおんこと  いまさらんいといはくら(言・磐座)
そのせき(塞・関)の戸の夜も明け
かくありがたき夢の告げ
覚むるや名残なるらん  覚むるや名残なるらん

考えてみると伊勢と三輪の神とは
もともと一体の神 それが二つに身を分けて出現なさっということは 今さら言うまでもない
あの天の岩戸の その戸ざしの開いた時のように夜も明けてきて
このようにありがたい夢のお告げが覚めてしまうのは まことに名残惜しいことだ
本当に残念なことである

(ひとこと)
この曲のクライマックスは明神の謡う神婚譚です。
仲睦まじい男女が、女が夜しか訪れのない男を不審に思い、男の衣に糸をつけて後を辿って行くと、三輪の神木に糸の先があった。つまり男は神だったという話。
結末は、天の岩戸前での神楽の再現の後に、伊勢神宮と三輪明神が一体と語られ、厳かというより華やかな感じ。そんな夢なら覚めてほしくない。
三輪明神は男でもあり女でもありという、官能的なおおらかさもこの曲も持ち味です。



















2012-12-11

三井寺


あらすじ
行方不明の息子千満を探す母が、清水の観音に参詣し、三井寺に行けとの霊夢を蒙り寺へと向かう。一方、千満は三井寺の住僧の弟子となっていた。中秋の名月に住僧は千満を伴い月を眺め、能力は千満を慰めるために舞を舞う。そこへ狂乱の母が来て、能力が鐘を撞くと母も鐘を撞こうとして制止される。だが母は鐘にまつわる様々な事を語り制止を退け鐘を撞く。その様子に千満は狂女が母と気付き、親子は再会を果たして故郷へ帰って行く。

次第  ワキとワキツレ
秋も半ばの暮れ待ちて  秋も半ばの暮れ待ちて
月に心や急ぐらん

中秋の今日(陰暦八月十五日)の日暮れを待ちかねて
早く(名月の日の)月を見たいと心がせかされることだ

(ひとこと)
名月ではな,く桜の盛りを見たいを見たい時には「花に心や急ぐらん」。簡潔で的確な言い回し。
ただ私は「秋の半ば」で8月15日には思い至らず、「暮れ」が日暮れとはわかりませんでした。

キリ  地謡
かくて伴ひ立ち帰り  かくて伴ひ立ち帰り
親子の契り尽きせずも  富貴の家となりにけり
げにありがたき孝行の
威徳ぞめでたかりける  威徳ぞめでたかりけり

こうして子を連れ帰り
親子の縁は尽きることもなくて 富貴の家となったのだ
まことにありがたい孝行の功徳で 
それはめでたいことであった

(ひとこと)
子を探す母の哀れさより、「月と鐘」の取り合わせが面白い曲の終わりはハッピーエンド。
千満は思慮深い子で、母にも孝行を続けたのでしょう。金持ちになるのは結構ですが、この結末は曲全体を安っぽくしているような気がします。詞章もありきたりですし。















2012-12-08

松虫


あらすじ
摂津国安倍野で酒を売る市人がいつもの不思議な客を待つと、男とその友人が現れ秋の安部野を詠嘆し酒宴に興じる。男は松虫の音に友を偲ぶ謂れ(即ち若者の一人が松虫の音に魅せられて草むらに分け入り帰らないので、一人が探しにいくが友人は死んでおり、男は死骸を埋めた)を語ると、男はその亡霊と名のり、友人は人影に紛れる。市人の弔問に亡霊が現れて友への懐旧を詠嘆。心友との交遊と酒興を讃美して舞を舞うが、松虫の音のうちに夜明けとなる。

次第  シテとツレ
もとの秋をもまつ(待・松虫)の  もとの秋をも松虫の
(ネ)にもや友を偲ぶらん

昔の秋が再び訪れることを待つかのように松虫が鳴く
その声を聞くにつけても友がなつかしく思われることよ
「もとの秋」は「素秋」で秋の別名

(ひとこと)
次第を読めば、曲のテーマは歴然です。
男同士の愛に近い友情の曲ですが、私には「愛」のもつ孤独や寂しさが秋の野に広がるように思えます。
「ねにもや」の中に「寝に」を読みとると艶っぽい雰囲気。終わり近くに「ただ松虫のひとりねに」という詞章があり、もちろん「独音と独寝」をかけてあります。

結末  地謡
すはや難波の  鐘も明けがたの  あさ(朝・)まになりぬべし
さらば友人(トモビト)よ  名残りの袖を
招く尾花の  ほ(穂・)のかに見えし  跡絶えて
草茫々たる  朝(アシタ)の原の
草茫々たる  朝の原に
虫の音ばかりや  残るらん
虫の音ばかりや  残るらん

難波の寄合語の「鐘」。
「袖、招く、尾花、穂」のつながりは常套的ですが、「さらば友人よ」には目が醒めます。
朝の原は大和の歌枕のようですが、ここでは朝の野原の意。
「松虫」は不思議な魅力にあふれた曲ですが、この結末が私には気に入りません。夜を通してすだく虫の音が朝まで残るなんて興をそがれます。
虫の音は消え、草茫々の朝の原だけが残った・・としなかったのは何故か。主人公は男たちではなく「松虫」だからかもしれません。