2013-01-21
山姥
あらすじ
都で評判の女曲舞の「百ま山姥」が、善光寺参詣のために、従者と共に北陸路にさしかかり、山中で日が暮れて当惑。そこへ女が現れ一夜の宿を申し出て一行を庵に案内する。女は、自分が真の山姥であると明かし、百まが曲舞で名を馳せながら本人を心に掛けないのは恨めしいと言い、再会を約して消える。夜更けになると山姥が出現し、百まを促して曲舞を一緒に舞う。そして山廻りの様子を見せるが、やがて姿は見えなくなった。
次第1 ワキとワキツレ
善き光ぞと影頼む 善き光ぞと影頼む
仏の御寺(ミテラ)尋ねん
有難い弥陀の光明による極楽へのお導きを頼りにして
仏の御寺の善光寺を尋ねることにしよう
(ひとこと)
善光寺の名を用い、仏に救いを求める女曲舞を善きものとして描いています。
芸能と宗教の関わりなども考えさせられる冒頭の詞章は従者のもの。
作者の世阿弥は芸能をただの娯楽と捉えてはいないようです。
次第2 地謡
よしあしびき(葭蘆・善悪・足引)の山姥が よしあしびきの山姥が
山廻りするぞ苦しき
善悪の差別をこだわって 足をひきずりながら 山姥が
悟りきれずに 足をひきずって 山姥が
六道を輪廻するかのように 山廻りをする その山廻りは苦しいことだ
(ひとこと)
この詞章は、都で百ま山姥が歌う曲舞と次第と同じです。
「よしあしびき」が多重の意味をもつ面白さ、山廻りに六道を重ねる奥の深さ。
「よし」という感動詞も勢いがありますね。
結末 地謡
廻りめぐりて 輪廻を離れぬ 妄執の雲の ちり(散・塵)積もつて
山姥となれる 鬼女がありさま
見るやみるやと 峰に翔り 谷に響きて
今までここに あるよと見えしが
山また山に 山廻り 山また山に 山廻りして
行方も知らず なりにけり
山を廻ることを繰り返して 輪廻から離れられない妄執の身
その妄執の雲の 塵が積もって山姥となったのであるが この鬼女の姿を
あなたは見ておいでであるか と言って 峰に飛びかけり その音は谷に響いて
今までここに いたと思われたのだが
山また山に 山廻り 山からら山へと 山廻りして
どこへ行ったのか わからなくなってしまった
(ひとこと)
「塵も積もれば山となる」という諺を元にしていても、教訓的な意味合いはありません。
塵は万物の素のようなものでしょう。
自然描写にあるふれた曲は、結末に「山また山」を繰り返し、人智の及ばない世界を開くようです。
山姥は自分を鬼女と言っていますが、村人の暮らしを影となって助ける存在でもあります。
行方知れずになる山姥は、自然と同化したのですね。
北斎に、「山姥」の顔が表紙になった狂歌画本があります。
その名は「山満多山」。江戸の山の手の景観と風俗が描かれています。