2012-08-03
当麻
あらすじ
念仏の行者が同行とともに三熊野より当麻に至る。そこへ姥が連れの女と現れ、当麻寺に詣でて弥陀を称える。二人は当麻寺の縁起に関わる旧跡を行者に教え、姥は曼荼羅の謂れや中将姫の悲願を語り、化尼化女の霊験を語る。そして、姥は自分達がその化尼化女であると告げると、二上の山頂より雲に乗って天上する。
行者たちが奇瑞を待っていると中将姫の精魂が登場し、弥陀の浄土を讃美し、経の功徳を説いて舞を舞う。
次第1 ワキトワキツレ
教へや嬉しき法(ノリ)の門 開(ヒラ)くる道に出でうよ
教えも嬉しい仏法の道、その諸法門の中でもとりわけ仏法の宗門を開き、広めるための旅に出かけよう。
「法の門ひらく」は中世歌語。「道」は仏道の意に旅の道をかける。
(ひとこと)
冒頭の次第で「仏法礼讃」がテーマだとわかりますが、本題はシテの次第に譲っている感じです。「開く」は、お話の始まりにもぴったり。
世阿弥の作品らしく「法の門」は、結末の詞章に二度も使われる「御法の舟」に呼応しているのかもしれません。
次第2 シテとツレ
濁りに染(シ)まぬ蓮(ハチス)の糸 濁りに染まぬ蓮の糸の
五色にいかで染めぬらん
泥中の濁りにも染まらぬ蓮の糸が、美しい五色に染まったのはどうしたわけか。
古今集、遍照の歌による。「蓮葉の濁りに染まぬ心もて なにかは露を玉とあざむく」。
(ひとこと)
「当麻」は小林秀雄の評論でも有名ですが、この曲によって私は「能を読む」ことに目覚めました。
能舞台を観ることなしに、ただ詞章を読んでいるだけなのに、眼は「総天然色」の映像をとらえ、耳には妙なる音楽が聴こえ、そして鼻では馥郁たる香りを感じ取ることできたのです。
五感が動き出すような詞章にびっくりしました。
不遇の中将姫が生身の弥陀来迎を望み、蓮糸を五色に染め曼荼羅を織りあげ浄土を見るというお話の根本にあるのは「美」。
「濁り」という言葉をだしていっそう姫と曼荼羅のの美しさ(それが法力の強さです)を謳いあげているようです。
結末 シテ
後夜の鐘の音 後夜の鐘の音 鳧鐘(フショウ)の響き
称名の妙音の 見仏聞法(ケンブツモンボウ)の
いろいろの法事 げにもあまねき 光明遍照 十万の衆生を
ただ西方に 迎へ行く 御法の舟の 水馴棹
御法の舟の さ(棹・梭)を投ぐる間の 夢の
夜はほのぼのとぞ なりにける
後夜とは夜半から夜明けまでの念仏。光明遍照~は、観無量寿経の成句。
「さを投ぐる間」とは、「梭」は舟形の機織具で、梭が縦糸をくぐり抜ける間の短い時間の譬え。
曼荼羅を織ることの縁でいう。
(ひとこと)
この結末を読むなり聞くなり観るなりしたら、誰でも夢心地になります。
大事なのは「夢の夜」の短さ。それを「明けにけり」ではなく「なりにける」とした凄さをどなたか解説して下さい。
「梭を投げる間」は中世では当たり前の言い回し。機織りが日常から消えればそれに纏わる言葉も失われてしまい残念です。
この曲は、弥陀を讃美しながら、実は「女性」を称えているのだと思います。弥陀を老尼に化現させるのですから。作者の世阿弥は、女神物も優れています。