2012-07-26

卒都婆小町


あらすじ
高野山の僧が供と上京し、途中の津の国で卒塔婆に腰をおろした老残の小野小町と遭遇する。老婆を咎める僧との間で「卒塔婆問答」となり、僧は小町に論破される。小町は美しかった往時を偲び、今の老衰と乞食の日々を語るが、突然深草の少将が憑依し、小町は狂乱して深草の百夜通いの様を僧に見せる。最後は仏法に帰依することを願い小町は合掌する。

次第1  ワキとワキツレ
山は浅きに隠れがの  山は浅きに隠れがの
深きや心なるらん


山は深山ではないが この隠れ処が 世の中から深く隠れているのは
仏道修行の心が深いためだろう

「捨る身の置所なる柴の庵 山もあさきやうき世なるらむ」(菟玖波集)
「この高野山と申すは・・末世の隠所として結界清浄の道場たり」(高野物狂)

(ひとこと)
この「山」を高野山、あるいは津の国の山とする必要はないようです。
僧たちの傲慢が言わしめた次第です。
作品の主題は「小町の憍慢」でしょうから、冒頭から対決姿勢が露わですね。

次第2  シテ
身はうきくさ(憂・浮草)を誘ふ水  身をうき草を誘ふ水
なきこそ悲しかりけれ


浮草のような憂き身を もはや昔と違って誰も誘う者のない悲しさよ
「侘びぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ」(古今集)

(ひとこと)
老残の身の述懐であるが、百歳にして「誘ってくれる男」がいないという歎きは小町ならでは。
本歌では「いなんとぞ思ふ」が歌の価値を高めているのに、あっさり「悲しい」とする分かり易さは謡曲ならではか。

キリ  地謡
これにつけても後の世を  願ふぞまことなりける
(イサゴ)を塔と重ねて  黄金の膚(ハダエ)こまやかに
花を仏に手向けつつ  悟りの道に入らうよ  悟りの道に入らうよ


このように恨みの報いを受けるにつけても 
後の世を願うことこそ 人としてもまことの道なのである
砂によって仏塔を造り(小さな功徳を積み)
仏の黄金の膚をこまやかに磨き(仏に忠実に仕え)
花をお供えして 悟りの道に入ることにしよう
(仏道に帰依し)悟りを開くことにしよう

(ひとこと)
キリは法華経(方便品)に基づいています。

観阿弥原作・世阿弥改作の曲は起伏に富んで面白く、僧を揶揄する百歳の老婆は痛快、狂乱の小町が自分が翻弄して死に至らしめた少将の百夜を演じるクライマックスは息をもつかせません。
だからこそ一転して雰囲気の変わる詞章が生きてきます。


お経が基といっても、砂、黄金、花とつづく美しさは「小町」のためにあるようです。以前読んだ時には良さがわかりませんでした。
シテが消えたり去ったりせずに、正面で合掌して終わる意味も深いです。
華やかな宮廷遊女の昔、落ちぶれた乞食の老婆となった今。二つの小町が合わさり一体の「小町像」を作るかのようです。仏の前ではどちらでも同じことでしょうけど。