2012-08-08

忠度


あらすじ
もとは俊成の御内であった旅僧が須磨で薪を運ぶ老人で出会い、平忠度の墓標の桜のもとで忠度の回向を頼まれる。老人は忠度の霊の化現で、花の宿りを勧め、名を暗示して花陰に消えた。浦の男から忠度の最期の有様を聞き、旅寝についた僧の夢に忠度の霊が現れ、自分の歌が千載集に読み人知らずとして入れられたことを嘆き、作者をつけるように定家に伝言を頼む。
そして都落ちの際に俊成へ詠歌を託したこと、一の谷で岡部六弥太と戦い討死にし、「行き暮れて・・」の短冊で名を知られたことなどを語って再び花陰に消えた。

次第  ワキとワキツレ
花をも憂しと捨つる身の  花をも憂しと捨つる身の
月にも雲は厭はじ

花さえも辛く厭うぶきものと見捨てた出家の身にとってみれば、月にかかる雲も気にかけることではない。
花鳥風月は風雅の種。花に嵐、月に雲は心悩ます種。過去に歌詠みであったワキだが、今はそのような世界と断絶した心境にいる。

(ひとこと)
世阿弥が「上花」と自賛する夢幻能の出だし。
忠度の亡霊は最高のワキ(聞き手)を見出したことが次第でわかります。
「花」はもちろん桜。曲の主題歌というべき、「行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし」に対応しているように私には思えます。人生に行き暮れることはないのが出家というもの。

キリ  地謡
おん身この花の  蔭に立ち寄り給ひしを
かく物語り申さんとて  日を暮らし留めしなり
今は疑ひよもあらじ  花を根に帰るなり
わが跡弔ひてたび給へ
木蔭を旅の宿とせば  花こそ主(アルジ)なりけり

あなたがこの花の陰にお立ち寄りなさったのを
このようにお物語り申し上げようと思って わざと日暮れにし引き留めたのである
今は私の言うことに疑いはあるまい 花が根に帰るように私はあの世に帰る
どうか私の跡を弔ってください
この木陰を旅の宿とするなら 花すなわち私が宿の主人である

(ひとこと)
曲は花にはじまり花に終わります。
「花が根に帰る」とは、花と自分が一体になることも意味します。
以前は読みが浅く、勅勘の身ゆえに「読み人されず」とされた忠度の悔しさばかりが印象に残りました。
でも今回次第とキリをじっくり読むと、「忠度」は「歌人と詠まれた歌は一体」であるということを言いたかったのだとわかります。まるでフローベルの「ヴォヴァリー夫人は私」だみたいに。(ちがうか)